Mymed

アナザー脱獄姫の冒険

 旧魔王城からの脱出を決意した姫が起きてみると、枕元には小さなリュックが用意されていた。おこわのおにぎりもある。まるで遠足のような荷物に起きて早々脱力した。
「……おはよう、じいや。そこにいる?」
 姫がついたての向こうに声をかけると、あくましゅうどうしがひょこっと顔を出した。でびあくまも姫の元に飛んできて、お風呂に入る際に外した冠をふわりとつける。おとぎ話のような瞬間に、姫の決意は少しだけ揺らいだ。
「よく眠れましたか、姫」
「……」
 姫には、起きておにぎりを見つけたときに決めたことがある。それは彼にとっては、いばらの道となる選択だ。
 きゅっとパジャマの裾を握りしめて顔を上げると、あくましゅうどうしは優しく笑顔を返す。それは、姫が実家の城で向けられていたような笑み。姫があくましゅうどうしにすぐに気を許したのはそのためだった。
「今から、君にひどいことを言う」
「なんです?」
 あくましゅうどうしはさらっと尋ねる。ひどいことを言うと前置きされて顔色一つ変えないことは、姫の信用をまた少し勝ち取ることに有効だった。
「私一人では人間界に戻る道のりが少し厳しい。悪いようにはしないから私と一緒にここから出てほしい」
 姫の手はパジャマの裾を一層強く握ったが、その目は真っ直ぐにあくましゅうどうしを見ていた。
 彼は、姫ににこっと笑いかけ、ついたての裏に置いてあった自分の旅行鞄を持ち上げて見せた。
「魔王軍には、人質にはお散歩させてあげることっていうルールがあるんですよ、姫」
「……!」
(脱獄しようと思っていることに気付いていたのか)
「……じゃあ」
「えぇ、人間界までお散歩しましょう。タソガレ様にも、ハデス君にも内緒でね」
「……この子も」
「そうですね、でびあくまも連れて行きましょう」
 姫はぎゅっとでびあくまを抱きしめて目を輝かせた。あくましゅうどうしの力がどれほどのものなのかはわからないが、一人よりもずっとずっと人間界に辿り着ける確率が高くなるのは確かだ。
 こうして、姫はあくましゅうどうしの案内でトラップだらけの旧魔王城を安全に脱出した。
 ハデスは大きな窓の前に立ち、二人を黙って見送る。後ろから睡魔が現れ、同じように見下ろした。
「行かせてよかったのか?」
「……話し合ったことだろう、行かせる」
「あの姫に何かを変える力があるかね」
「少なくともあくましゅうどうしは変えた」
 ハデスは前の晩のことを思い出して肩を竦めた。
 ――姫の意志で脱獄を継続してもらおう。
 それは、あくましゅうどうしが二人を集めて言い出したことだった。ハデスも睡魔もいい顔をしなかったが、二人も姫を魔王に引き渡すべきとは言い切れなかった。
 ――姫に魔界を引っ掻き回してもらえば、タソガレ様もほころびに気付くはず。もう、荒療治しかないように思うんだ。
 それは姫にとっては過酷な道のりだ。自分の意志で旧魔王城を脱出したと思わせて、少しずつ軌道修正をして王族として魔王に対峙させようという、悪魔の提案なのだった。

*****

「あ、村だ。ここで休もう」
「……村って……魔族の村じゃないか」
 村を見つけたのは、でびあくまがいなくなって実に二日が経ったときだった。ひそひそと抗議する姫をよそに、あくましゅうどうしは「大丈夫だよ」と言って姫にローブをかぶせた。
「それにもうそろそろお風呂にも入りたいだろう?」
「それは……そうだけど」
「寝るのもベッドがいいだろうし」
「……」
 姫は少しの恐怖心があったが、お風呂とベッドの誘惑には勝てず、あくましゅうどうしにぴったりと寄り添って村に入った。
「すみません、悪魔の里から来たばかりなんだけど、この村に宿はあるかな?」
「どうしてまたこんなところに。あ、そっちの女の子!」
 姫が体を強張らせると、あくましゅうどうしは魔物から姫を隠すように一歩横に動いた。あくましゅうどうしは姫に背を向けているが、その長いしっぽが姫を包むように体から数センチのところで大きな円を描く。
(結界のようだ)
 姫はぎゅっと首元のローブを握りしめたまま、深呼吸をした。
(大丈夫、守ってくれる)
 対して、魔物は予想外の反応だったのかケタケタと笑った。
「取って食いやしないよ。駆け落ちかい?」
 魔物は姫のことを人間だと気付いたわけではなさそうだった。もう一度ほっと息をつくと、途端に自分にはないものが気になってくる。守るように自分の周りを一周しているあくましゅうどうしのしっぽ、ちょうど姫の目の前にある付け根のすぐそばを撫でてみる。と、彼はギョッとして姫を見たが、平静を装ってすぐに魔物に視線を戻した。
「っ、そ、んなところだよ」
「宿や食堂はこの街道沿いにかたまってるよ」
「ありがとう」
 姫は余裕が出てきてローブの隙間からきょろきょろとあたりを窺った。魔族ばかりの村だが、笑顔にあふれている。昔視察した村と変わらないように見えた。
(でも、人間だとわかったら殺されるのだろうか)
 この村人の笑顔と、残虐な魔族とが結びつかない。
 ふと姫が顔をあげると、真っ赤な顔のあくましゅうどうしが姫の両肩を掴んだ。
「姫、私のしっぽは……触らないでくれるかな」
「え、ごめん」
「……宿の前にご飯を食べよう」
「え? でも疲れたし荷物を置きたい」
「今、寝室はまずいの!」
 有無を言わせないあくましゅうどうしによって、特にお腹もすいていないけれど食堂に連れてこられた。食事時の食堂は通りよりも更ににぎわっていて、活気がある。
 入り口で立ち止まりきょろきょろしていた姫は、帰ろうとする客にぶつかってしまった。はずみでローブのフードが脱げ、ヘアバンドで留めた銀髪があらわになる。姫は何度目かわからない血の気が引く音を耳の奥で聞いた。
「大丈夫かい、嬢ちゃん」
「あ……ぅ……」
「お前の顔が怖いから怖がってるじゃねぇか。ほら、立てるかい?」
 固まる姫に、二人組の魔物が手を伸ばして引っ張り起こす。一人は動物のようで、一人はゾンビに似ていた。容姿は人間とは似ても似つかないが、対応は人間とほとんど変わらない。
「……あ……、あり……がと」
「嬢ちゃん人間っぽいな。一人かい?」
「人間がこんなに大人しいもんかよ。凶暴で恐ろしいよな? お前もこの前怪我をさせられてたじゃないか」
(人間が凶暴で恐ろしい……?)
 姫はぱちっと瞬きをする間に考え込みそうになったが、慌てて意識を引き戻す。
「……あ、えと……、じ、じいやが、一緒にいて」
「おや、これはうちのお嬢様が何か失礼でも?」
 騒ぎに気付いたあくましゅうどうしが戻ってきたので、姫がその脇腹にぎゅっとしがみついた。あくましゅうどうしはそんな姫にフードをかぶせながら、子どもをあやすように頭をぽんぽんと撫でる。まるっきり孫を可愛がる動作だった。
「悪魔の兄ちゃん、この村だからまだいいけどここより前線に近い村だとこんなぼーっとした子から離れるのは危ないぜ」
「肝に銘じておくよ」
「じゃあな、嬢ちゃん」
「あ……、うん、さよなら……」
(こんな魔物もいるんだ……知らなかった)
 考えこむ姫を見て、あくましゅうどうしは目を細めた。プライベートな場所を触られたことにざわつく心を落ち着かせるためだったが、姫の魔族に対するイメージが変わるきっかけになるには十分だった。姫はもくもくと食事する間も考え続け、とうとうこの後食堂で姫が発した言葉は「おいしい」だけだった。

 食事が終わり、宿で部屋をとろうというときに次の問題は起こった。あくましゅうどうしは別々の部屋を取ろうとしたが、姫が横から「かけおちだから同じ部屋で」と言ったので、ツインの部屋になってしまったのだ。ダブルベッドの部屋だけはなんとか拒否したものの、宿屋の主人には「壁は厚めだよ」なんて言われる有様だ。部屋に入ってすぐ、あくましゅうどうしは両手で真っ赤な顔を覆った。

「なん、なんで同じ部屋……!?」
「なんでって……護衛が離れたら意味ないから。それより、名前を教えてよ。カケオチなんだからじいやじゃおかしいよね」
「駆け落ちの意味、わかって言ってる……?」
「……ウン」
(嘘だ)
 あくましゅうどうしはこの数日の間で姫が嘘をつくことやごまかすことがかなり下手だとなんとなくわかってきた。そして、これまでの行動も全てにおいて深い意味や意図もないことも理解した。
(でも、それとこれとは別……! しっぽを触られて意識しないなんて無理……!)
 しっぽ、特に付け根は悪魔にとってはかなりプライベートな場所である。人間で例えると、若い女性がお腹や太ももを出すこと、またはそこを触られることを何とも思わない人、はしたないという人、性的魅力を感じる人など様々だが、悪魔にとってのしっぽの付け根はそういうものだ。邪教とはいえ修道士として禁欲の誓いを立てているあくましゅうどうしにとっては、性的なものとなっていた。性感帯とは得てして、意識して抑え込んだ者ほど反動が大きいものである。
 一度意識した相手と一晩を同じ部屋で過ごすなんて、とあくましゅうどうしは部屋の隅で膝を抱えた。うじうじと膝に顔をうずめていたので姫が目の前にしゃがんでいるのに気付かなかった。
「ねぇ、名前!」
「え? ひゃっ、近……っ」
「名前は何?」
「……えっと、私はレオ――」
(せっかく信頼されてきたのに、レオナールの意味を知っていたらどうしよう)
 名前の途中で口をつぐんでしまったあくましゅうどうしに気付かず、姫は頷いた。
「レオ君ね。私は栖夜。でもお尋ね者かもしれないから、スヤリスでいいよ」
「……、あ、うん」
「スヤリス」
「わかったよ、スヤリス……さん」
 あくましゅうどうしは、また頬を染めて膝を抱える。既に目的を達成した姫ははしたなくベッドにごろんと寝転んだ。
「レオ君。私ね、前も言ったと思うけど魔物ってもっと怖いものだと思ってた。でも、人間も魔物も変わらないのかもって今日は思ったよ。レオ君の言った通りだね」
「……姫。大事な話が」
 あくましゅうどうしが顔を上げると、姫は既にすやすやと寝息を立てていた。自分は何を言おうとしたのだろう、と出しかけた手を数秒彷徨わせた後、姫に布団をかけた。
(いくら姫が柔軟でも、この計画にのってくれるはずがないじゃないか……)
 姫の安らかな寝顔を見ながら、あくましゅうどうしは何度も心の中で謝っていた。過酷な道を進ませることに、たった数日を共にしただけで罪悪感が生まれ始めていた。あくましゅうどうしには一つ大きな誤算があった。悪魔の彼は人を利用することや騙すことにそれほど抵抗はない。しかし、先代の魔王ウシミツに仕えて若い魔物や幼い現魔王タソガレの世話をしているうちに、彼の庇護欲は大きくなっていた。姫はまさに庇護欲を掻き立てる人物で、しかも、実に健気な人物なのだった。
 これ以上床に座りこむと腰が痛くなりそうだ、と立ち上がると、姫の銀髪が月明かりを柔らかく反射するのが見えた。美しい彫刻のような寝姿に、眩しさすら感じる。
(絶対に安全にタソガレ様の元へ連れて行く……。それまでに魔族を知ってほしい。そうしたらきっと、何か道が見つかるはずなんだ)
 あくましゅうどうしの苦悩の旅路と姫の冒険はまだ、始まったばかりだ。