Mymed

全てを捨てる

 睡魔の選択肢を聞いたとき、姫は驚いた。

「捨ててもいいの? そんなこと考えたこともない」
「そうそう代わりがいるポジションではないが、王族から離れている者だっているだろう」
「コモリスおばさまは……確かに……。でも私の王位継承権は――……、そういうのを、捨ててもいいってこと……」

 姫は、姫であることが嫌になったことなど一度もない。学校に通っていないことや友達ができにくいことなど、多少の不満はあっても自分を愛している民のための苦労を嫌だと思ったことはなかった。

(捨てる……。捨てたら、どうなるのだろう)

 顔を上げると、すぐそばにあくましゅうどうしの顔がある。

(全てを捨ててレオ君を選ぶ……?)

 姫が考えこんでいる間、鼻と鼻が触れ合うほどの距離に顔があるあくましゅうどうしは顔を真っ赤にしていた。

(こんなのある種の拷問だ。心臓が破裂する)

「レオ君を選んだら、民はどうなるんだろう。私はそれを思って、憂鬱になるに違いない。……だけど、レオ君を手放す気はない」

 そこに後押ししたのは、意外にもハデスだった。

「人間は一人統治者が欠けたくらいで絶滅はしない。それどころか、神が魔族側についても気にしないくらいだ。それは歴史が証明している」
「……」
「自分の意志を他人のせいにするのは簡単だ。今はただ、後悔しない道を選べばいい」
「……ありがとう……。そうだね、民のせいにしてはいけない。……決めた」

 姫の心は固まった。あくましゅうどうしを選ぶという選択肢を彼女は選んだ。

***

 旧魔王城から姿を消した二人は、そのまま人間界でいうところの冒険者として各地を転々としながら、ただただ二人の時間を過ごしていた。途中にある集落に留まることもあったし、あくましゅうどうしの希望で洞窟を改造して家にすることもあった。
 人間の姫が誘拐されたまま行方を眩ませたことは人間と魔族の諍いを永久なものとしたが、危惧していたような大きな問題は起こらなかった。
 どこへ行くにも二人一緒で、今回はいつか購入した砂漠の地方の民族衣装に身を包み、人間界の街で過ごして数日だ。

「あの服可愛い」
「似合いそうだね」

 珍しい民族衣装を着た大きなターバンの男と少女が手を繋いで歩く姿はかなり目立ち、二人は早くも顔なじみの店ができていた。

「今日も仲が良さそうで羨ましいわ」
「うん」
「でも旅人さん、気を付けてね。魔族との戦いの場所に現れる神出鬼没の危ない魔物がいるんですって」
「ありがとう。気を付けないとね」
「そうだね」
「というわけで、この水のはごろもアーマーはいかが? 可愛さと機能性を兼ねそろえた逸品よ」
「なぁんだ、商売上手なお姉さんだなぁ、もう」
「せっかくだし試着させてもらったら?」
「んー、レオ君はすぐ褒めるからなぁ」

 店でいちゃつく二人に店員は負けじと売り込む。この街ではそんな姿がよく見られた。
 人間界での宿選びはいつも苦労していたが、最近はラブホテル以外にも個室に浴室がついている宿が増えてきていた。というのも、宿業界で金払いのいい砂漠地方の客が浴室付きの個室を所望するともっぱらの噂になっているからだ。もちろん、二人のことである。
 とはいえ、宿が用意しているのは大きなクイーンサイズベッドがあるスイートが多く、あくましゅうどうしの心は乱されるばかりだが、スヤリスは全く気にするようすもなくその部屋を取ってしまう。

「また……同じベッド……」
「いい加減慣れたら?」
「あのねぇ、私はスヤリスさんを怖がらせたくないし、すごくすごく大切にしてるの! スヤリスさんももっと危機感を持って!」
「わかった。じゃあお風呂に入ってくるからルームサービス頼んでおいてもらえる?」
「絶対わかってない……」

 あくましゅうどうしは真っ赤な顔でフロントへおりてルームサービスを頼んだ。

「すみません、ルームサービスをお願いします。大体1時間後くらいに持ってきてもらえればと思うのですが」
「はい、いつもありがとうございます。飲み物のご希望はございますか?」
「いいえ、いつも通りで」
「かしこまりました」

 人間界ではできるだけ食事を宿でとることにしている。あくましゅうどうしの人間には鋭すぎる八重歯を気にしてのことだ。しかし、それすらもお金を落とすことになるため宿業界では好評だった。また、料理に自信のない宿は大手レストランと提携することも増えていて、舌の肥えたスヤリスを大いに喜ばせた。
 ただ、あくましゅうどうしが困っていることといえば。

「じゃあ、おやすみのキスをして」

 家族はおやすみのキスをするもの、というのがスヤリスの家族観らしかった。毎晩のように理性を試されているあくましゅうどうしは困りつつも、かなり喜んでいる。
 彼女のすべすべのおでこにおやすみのキスを落とし、ドキドキしながら自分もベッドに入る。
 夜中、スヤリスは寝返りがしづらくて目が覚めた。

(またか。レオ君のこれ、無意識なんだろうなぁ)

 ベッドでもおやすみのキス以外は一切触れてこないあくましゅうどうしだが、寝ているときはしっぽがスヤリスを捕まえるようにその身を一周する。いびつな独占欲すら愛おしいというのはおかしいだろうか。スヤリスは、そっとしっぽを撫でてまた目を閉じた。
 ただただ楽しい二人だけの時間。そして、その街に飽きれば気ままに旅をする。
 人間界の街を出た二人は、今度は魔界を旅していた。

「見て、レオ君。あれ、海じゃない?」
「スヤリスさんは泳げるの?」
「泳げないよ。でも波打ち際で遊ぶくらいはしてみたいな」

 水平線が見える魔族の街に着いた二人は、おしゃれなカフェへと吸い寄せられていった。カウンターで並んでテイクアウトの飲み物を受け取るタイプのチェーン店のカフェだ。他に客がいないこともあり、店主は注文した飲み物を作りながらカウンターで待つあくましゅうどうしに話しかけてきた。

「旅人さんですか? また前線の悪魔が出たらしいですね」
「前線の悪魔……?」
「なんでも、人間との戦争の前線にふらっと現れては人間にも魔族にも壊滅的な被害を与えていく悪魔らしいですよ。それで随分戦いが長期化しているみたいです。お兄さん悪魔族みたいですけど、そういう悪魔って知ってます?」
「さすがに魔族にも被害を与えるような悪魔は身内にはいないですね……。それにしても、近くを通ってきたけど知らなかったな。そんな危ないひとにあって彼女が怪我したらと思うと怖いよ」
「本当ですよね。はい、お待たせしました。ロイヤルミルクティーと魔玄米茶です」
「ありがとう」

 スヤリスは、飲み物を待つ間窓の外の往来を楽し気に眺めていた。ロイヤルミルクティーを受け取ると、お礼を言ってはにかんだ。

「あっちのお店が水着を売ってそう」
「スヤリスさんの水着姿、きっと可愛すぎて直視できる自信ないよ」
「もう、いつまでも照れ屋さんだなぁ」
「他の男に見られて正気でいられる自信もないなぁ」
「他の人なんて気にしなくていいのに」

 あくましゅうどうしのドロドロした想いの吐露を難なく受け止めるスヤリスは、どんな水着を買おうか悩むばかりだ。
 旅人、人間界でいうところの冒険者として旅をする二人は、時折住人の問題を解決したり、道中の敵を倒しながら生計を立てている。それで今回も懐に余裕がある。衣装持ちのスヤリスが新しい服を、と言うのは予想がついたことだった。

「この後どうする? 宿をとって、水着を買って、それからご飯かな」
「そうだね」

 二人は水着を買って、宿で着替えて砂浜へと向かった。
 時間を忘れ波打ち際で遊ぶ二人の周りに人影はない。人間界でも魔界でも、住民は何かに怯えて暮らしている。得体の知れない前線の悪魔に、世界は怯えている。
 統一国家カイミーンが統一したのは、共通の敵である魔族に対抗するためである。共通の敵があれば、いがみ合う国同士も協力し合うものである。今、人間界と魔界には、前線の悪魔という共通の敵がいる。この二つの勢力が手を組むまでのカウントダウンは始まっているともいえた。

「スヤリスさん、暗くなる前に戻ろう」
「うん。何を食べようか」
「やっぱり海の傍だし、海鮮系が美味しいんじゃないかな」
「いいね」

 二人の仲睦まじい旅人たち。その姿がどうしてこうも空恐ろしいのか、閑静な街に住まう住民にはわからない。

「! 美味しい……!」
「やっぱり新鮮だと違うね」

 そうして、噂の詳細を思い出すのだ。
 ――前線の悪魔は、はさみを背負った少女と長身の悪魔の二人組、だと。


Merry Bad End.