トゥーランドット
それは、いつもの日常。十傑衆の会議に囚われの姫がいることすら、ただの日常だった。
少しだけ肌寒いこの日、レッドシベリアン・改がしかめっ面をしているのは姫が会議室にいるせいではなかった。本日の姫は大人しい方なので、目の届かない場所で何か面倒ごとを引き起こされるよりは随分と安全だ。その認識がかなりズレてしまっていることには誰も気付かない。
「魔王様が目指す魔界の姿はいいと思うのですが、それはそれとして最近部下がたるんでいる気がするのです」
「改がそんなことを言うなんて余程なのだな」
「遅刻や無断欠勤が増えている気がします」
改が眼鏡を外して眉間を揉む。魔王の言う通り余程のことなのだろうということは察せられた。あくましゅうどうしが「やる気ということなら」と前置きして提案する。
「修練大会の時期を少し早めるかい? 少しは気合が入るかもよ」
「うむ……」
「その時はちゃんと教えてね、私だけいつも途中参加なんだから」
「いや待て。人質が参加するのがおかしいってのは、俺は言い続けるぞ」
ポセイドンの言葉に対し、姫はふっと笑った。
「私に負けるのが怖いんだね」
「違うだろ! 今、参加することがおかしいっていう話してただろ! 大体運営委員だから俺は参加しねぇし!」
「まぁまぁ。今日はどうして牢から出てきちゃったんだい?」
「んー? 今日は難しい話を聞いて寝ようと思って」
子どものような喧嘩が始まりそうな雰囲気に、あくましゅうどうしが仲裁する。姫の言葉に返事をしたのは魔王だった。
「今日の議題は眠くなるようなものはないのだ。牢に戻るのだ」
「うーん。じゃあ、修練大会があるならみんなとトレーニングしようかな」
「いや、牢に……」
「みんなって?」
「マッスルクラブだよー。じゃあね」
自由極まりない姫が会議室から出ていくと、魔王は一瞬押し黙った。
(すごく自然に交友関係を聞き出そうとしたのだ……)
「……会議を続けるぞ」
気を取り直した十傑衆の面々の中、あくましゅうどうしだけは別のことを考えているような顔をしていた。
その頃、姫は早速トレーニングルームに向かい、はりとげマジロやミノタウロスなどの先ほど姫が適当に命名したマッスルクラブメンバーと一緒にトレーニングをしていた。鉄アレイを振り回すので誰も近寄れないが、アイアンスライムを引き千切っていたときよりも被害者は少ない。
「そういえば、モフ犬が遅刻とかが多いって悩んでたんだけど、君たちも遅刻することある?」
「ほとんどないな。魔王城に住んでるのに遅刻も何もないぜ」
「遅刻したら給料から引かれるしいいことないよなー」
「だよねぇ」
「あー、でもさ、無断欠勤は最近聞くな。姫も知ってる奴だとはぐれかまいたちとか」
「あれ? 確かに最近見ないけどあいつって出張中じゃねぇの?」
「なんだ姫、今回はレッドシベリアン・改様の悩みを解決するのか?」
「ん、まぁ。モフ犬も疲れてたからね」
姫は筋トレを終えてお風呂で汗を流し、程よい疲れを感じながらうとうとしていた。本日の出来事を振り返りつつ、ぼんやりと考える。改の疲れた顔はやはり気にかかる。
(探偵の衣装、どこにしまったかな)
「明日から、調べよ……」
その頃、魔王は執務室で頭を抱えていた。目の前の改もあくましゅうどうしも似たような表情だった。
「たるんでる、というよりも……」
「何か理由がありそうですね」
改の発言が気になって二体と共に近年の離職率を振り返ってみるとそれがあまりにも高いことが判明した。思えば、理由を言わないが辞めたいという者などかわいいもので、無断欠勤をして姿を消す者がかなり多い。
「改、調査を頼めるか?」
「そうですね、俺の部下が多い。何か対応策を見つけたいですね」
「私は改くんとは別のルートから調べます。とはいえ……懺悔室は匿名ですし、……あぁ、治療記録を見てみましょうか。例えば、勇者と戦った記録と一致することがあるかも」
「そうだな、そうだったらダンジョン勤務と魔王城勤務のローテーションのスパンを短くしよう。では、それぞれ頼んだぞ」
全員が深いため息をつく。不穏な影は、魔王城を更に暗く感じさせた。
魔王の執務室から戻ったあくましゅうどうしは、部屋にもどってから真っ直ぐに部屋の隅にきた。特殊な呪文を呟くと、魔術で作った通路が現れる。その通路を抜けると、石造りの隠し部屋があった。厳重に隠されたその部屋は窓も家具もない。ただ大きな石の山と数枚の紙切れがあるだけだ。あくましゅうどうしは石の山を前にしてぽつりとつぶやく。
「ごめんね」
言葉とは裏腹に、その顔には相変わらず微笑みを張り付けていた。目の前の大きな石の一つを、生き物の頭にするかのようにポンと手を乗せ、少しだけ目を伏せる。
「……魔獣部隊の子ばかりだったなんて知らなかったな。他の部隊の子もいた方が自然だね」
細長い指が石に刻まれたはぐれかまいたちの墓という文字を撫でる。くすりと笑うその瞳に光はなかった。
ゾンビにならないようにと墓の山に聖水を振りかけるあくましゅうどうしがまたくすりと笑うとき、魔王城には冷たい風が吹いていた。
翌日、探偵の衣装を引っ張り出した姫は、オヤジトンカチにとある依頼をした後に改の元へやってきた。
「君の悩みをこの探偵スヤリスが解決するよ。でね、私は安楽椅子探偵なの。だから、この安楽椅子にタイヤを取り付けてもらったよ」
「……それで?」
「君が押して」
一悶着あった後に、改が折れて姫が座った安楽車椅子を押しながら寮へと向かう。ゆらゆらと揺れる安楽車椅子の上で行方不明者リストを眺めていた姫だったが、「酔った」と言って寮に辿り着くまで遠くを見ていた。
「着いた? よし、手伝うー」
手伝うという姫だが、ラクガキをしたり不注意で手帳を破いたりと、改が怒って彼女を追い出すまでそんなに時間はかからなかった。
追い出される際にポケットに入れた、破いた手帳の一部をチラッと見てマグマに投げ入れる。小さな紙はじゅわっと溶けるように消えてしまった。
「……他の行方不明者は……あっちの部屋かな」
改よりも先回りして行方不明者の部屋を捜索しようと歩き出す。
暗記したリストの最後の行方不明者の部屋を捜索していたとき、姫は突然首根っこを掴まれて持ち上げられた。
「ぬ!?」
「邪魔をするんじゃない!!」
「……参考になりそうなもの、何もないね」
「日記をつけるようなマメな者はいないようだな」
「うん」
何もないね、ともう一度姫が呟く。改は頭をぐしゃぐしゃと掻き溜め息を吐いた。かなり切羽詰まっている様子に姫は少し目を伏せた。
「俺は退職した者に話を聞きに行く。あまり成果はなかったが……手伝ってくれたことは感謝する」
「いいよ。安楽椅子は誰か他の魔物に押してもらうから、モフ犬の探偵助手はここまでだね」
「うむ。他の者にあまり迷惑をかけるんじゃないぞ」
改が出張の準備をしに立ち去るのを見送って牢に戻ろうかと身を翻したとき、姫は少し考えてから後ろにジャンプした。後ろ、つまりマグマに真っ逆さまに落ちた姫は、先程の紙切れのようにじゅっと一瞬で死亡した。
次に姫が目を覚ましたとき、棺おけの中だった。蓋を開けて体を起こすと、心配そうに見下ろすあくましゅうどうしがいた。ほっと息をついて笑うと、あくましゅうどうしはお説教の姿勢だった。
「いのちだいじにって約束したよね!?」
人間式の約束もしたじゃないか、とあくましゅうどうしが小指を立てて見せる。と、棺おけに座ったままの姫がその指に小指を絡めた。あくましゅうどうしは「ひぇっ」と声を漏らした。
「い、今はそのつもりじゃなくて、思い出してって意味で」
「……指切りげんまん」
「うん、指切りげんまんしたでしょ? ……元気ないね?」
「レオ君も、いのちだいじにしてる?」
「え?」
あくましゅうどうしの瞳がわずかに動揺に揺れる。姫が絡めた指をほどくと、あくましゅうどうしは棺おけの縁を掴んだ。
「何か、知って――……」
「ほら、この前も石の柱に頭をぶつけてたし……、あと、お話してる途中によく倒れるじゃない?」
「……あぁ、そ、それは」
(姫が可愛すぎるからだ)
あくましゅうどうしが目を伏せると、姫が立ち上がった。外套風の上着と鹿撃ち帽子を整えて見せると、彼は目尻を下げて応える。
「今日はね、実は探偵スヤリスをやってるんだ。モフ犬が言ってた無断欠勤の魔物たち、行方不明の子もいるんだって」
「……へぇ。それで、探偵さんは何か事件の手がかりを見つけたの?」
「……ううん」
(事件かどうかなんて犯人しか知らないんだよ、レオ君)
姫は何も言わずに目を伏せた。それからもう一度あくましゅうどうしの小指に小指を絡めて「指切りげんまん」と呟く。
「今度こそいのちだいじに、守ってくれるのかな」
「ううん」
「ううん!?」
――日記をつけるようなマメな者はいないようだな。
改はそう結論付けていたが、日記をつけていた魔物が一体もいなかったわけではない。全てが先回りしていた姫のポケットの中にあった。そしてそれらは、姫が死亡したときに全てマグマで燃え尽きた。
(私が守るからね)
顔をあげ、あくましゅうどうしの目をじっと見つめる。姫から目を逸らすその瞳に、光はない。姫は何か言いたげに柔らかそうな薄桃色の唇を開いたが、そのまま何も言わなかった。
(何か考えがあるんだよね? いつか、ちゃんと蘇生するよね?)
目の前の悪魔に聞きたいことを聞けないなんて、初めてのことだった。
小さな歯車が動きを止めた魔王城は、やがて全体が歪んでいく。
その歯車に名前があるのなら、きっと「愛」なのだろう。
誰も寝てはならぬ。蘇生は望めないから。