Mymed

例のデート捏造

「痛っ」

 小さく、しかし鋭い悲鳴がこぼれたのは、姫が炊き込みご飯を食べ終えてソファーでくつろいでいた時だった。
 それまで帰れだのなんだのと言っていたあくましゅうどうしが「どうしたんだい」とソファーに近付くと、姫は涙目で彼の顔を挟むように掴んで、口付けをするかの如く顔を近付けた。

「なっ、何を」
「目にゴミが入ってないか見て」
「いやでも顔が近――……」
「痛いの……」

 姫の悲痛な声にあくましゅうどうしはすぐに抵抗を止めたが、いくら目を細めても、どれほど凶悪な顔になろうとも、姫の目を覗き込もうとするとボヤけてみえる。頭を固定しようとする姫の顔を離してみると、ピントが合う距離では到底目に入ったゴミなど見えない。
 結局、虫眼鏡で拡大して目にまつ毛が入っていることを確認し目薬をさしてまつ毛を出したのだが、姫の苦痛が解消されたと同時にあくましゅうどうしの心には深いダメージがあった。

「うぅ……、確かに計量カップの数字も見えづらいけど、まだギリギリ大丈夫だと思ってたのに」
「レオ君、老眼鏡買いに行こ」
「うぐ、老眼……」
「あれでしょ、目にビュッと風が来るのが怖いんでしょ? 一緒に行ってあげるから。ね?」
「ひ、姫は優しいなぁ」

 何か誤解があるとは思ったものの、もう「まだ大丈夫」というのは使えそうにない。姫が時間を決めて「それじゃ明日ね」と言って帰ってしまうまで、あくましゅうどうしは落ち込んでいた。
 打ちひしがれたまま寝た彼はいつも起きる時間の一時間前に急に飛び起きた。目はいつになく冴えている。

(もしかして今日、二人で出掛けるのか。それってつまり……)

 つまり、人質の姫が城外へ出るということ。それは老眼どころじゃない大事件だ。が、彼が考えたことは魔王軍の幹部としては多少ズレていた。

(つまり、デート……。いやいや、姫にそんなつもりはないか。でも、並んで恥ずかしくない格好をしないと)

 そう。人質の姫が城外でお買い物をする異常事態など、もはや些末なこと。あくましゅうどうしであると城外の魔物にバレない格好をすることよりも優先したのは、おしゃれを好む姫にダサいと思われないこと、その一点である。
 とはいえ、彼にとっての一張羅は既に用意されている。以前ふと、姫が何の気なしに似合いそうと言ったスーツだ。これに、小物を追加していけばスマートな大人の演出となる。足元は柔らかく艶やかなドラゴンの革を使った革靴だ。鏡の前には、これから誰かの披露宴にでも行くのかというほどに気合いの入った男が立っていた。

「……って、私は何を……。これはこれで引かれそう……。あ、靴はカモシュがくれたブーツあたりがカジュアルでいいかも」

 革靴をブーツに履き替えてジャケットを脱いだとき、ちょうど「おはよ~」と声がした。いつも通る穴からではなく、ドアからするりと入ってくる。

「おはよう。ひ、め……」

 あくましゅうどうしは、そのあまりの眩しさに絶句した。
 姫の格好は、いつものパジャマとも仕事スタイルとも違い、白いシルクのような生地が眩しいワンピースだった。いつだったかホワイトデーに贈られていた黒いパンプスに同じ色のバッグを合わせている。そして手には同じく黒のストールを持っている。モノトーンコーディネートをした姫は、ワンピースを披露するかのように少し手を広げて見せた。

「可愛い、ね」
「でしょ? 作ったんだよ。レオ君、髪のセットしてー」
「できないよ」
「じゃあ、梳いて」
(自分でした方が早いだろうに)

 あくましゅうどうしは、姫をソファーに座らせて髪を梳く。あくましゅうどうしは姫が自分の髪をハーフアップにするのを眺めていたものの、ふと気付いて着ようと思っていたコートと一緒にかかったストールを見た。薄手のコートには黒いストールをかけている。ブーツの色にも合って、きっとよく似合う。
 しかし、姫が持っているのも黒いストールである。図らずもお揃いになってしまうところだった。あくましゅうどうしはストールを外し、コートを着込んで姫の準備を待った。

「できた」
「えっと、似合っているよ」
「うん。レオ君、これも似合うと思うよ」
「あ、でもそれは」
「うん、似合う」

 クローゼットに戻したストールを姫があくましゅうどうしの首にかける。あくましゅうどうしはわずかに頬を染めながら首にかけられたストールを丁寧に巻きなおした。姫は大判のストールを肩から羽織り、さりげないお揃いコーデが完成してしまった。
 幸い、朝早かったため活動している魔物はさほどおらず、部屋を出てからもあくましゅうどうしが怯えるような不審の目が向けられることはなかった。姫は飛行ポッドに乗り込み、迷いなく目的地を選ぶ。

「お店の場所知ってるの?」
「うん。昨日のうちにモフ犬と砂のひとに眼鏡屋さんの場所を聞いたの」
「えっ、そうなの。ありがとう」
「最高の老眼鏡を作ろうね、レオ君。ほら、乗って」
「え、私は飛ぶからいいよ」
「だめ。おしゃべりできないでしょ」

 飛行ポッドは元々ケロ・ベロ・スゥが乗ることを想定してあるため、姫とあくましゅうどうしが乗ると少し狭く、互いの肩が触れ合うほどだった。

(近い近い近い近い)

 逃げ場のないあくましゅうどうしは、姫から意識をそらすため、姫の奥にある朝日を見た。ゼウスが来て以来、長い夜の中にあった魔王城にときどき朝が訪れる。

「あ、ほら姫。綺麗な朝焼け」
「本当だ、綺麗」

 不意に姫が振り返る。しかし、近すぎるその顔はぼんやりしている。かろうじて微笑んでいるような気がする程度だ。
 おそらくそのことに気付いたのだろう姫は、ぷぅっと頬を膨らませたがあくましゅうどうしは気付かない。ただ、明るい日の光の中で浮かび上がる姫が、美しいと思った。
 魔王軍幹部御用達という小さなプレートがショーウィンドウに置いてある眼鏡屋は、愛想のよい店員が出迎えるなり「ご自由にお試着をどうぞ」と微笑んだ。
 姫はすぐに自分好みの可愛らしいデザインのフレームを手渡そうとするので、それを固辞しつつシンプルなデザインのフレームを選ぶ。

「見て、レオ君」

 姫が眼鏡をかけてウインクするが、普段魔王城でしているようにのたうちまわるわけにもいかず、というか魔王城でものたうちまわるのはやめようと思いつつ、あくましゅうどうしは頬を噛んで顔がにやけるのを抑えていた。フレームにぶら下がる値札が妙に楽し気に揺れる。

「私の眼鏡を探しに来たんでしょ。これなんかどうかな」
「似合ってるよ。あ、こっちかけてみて」

 まるっきりカップルのそれである。
 店員に一歩引かれていることに気付かず数十分かけてじっくり試し、ようやく意見が一致したものを選ぶ。と、姫が急にあくましゅうどうしの手をぎゅっと握った。

「風がビュッとくるやつ、一人で大丈夫?」
「大丈夫だよ! 私、別にそれが理由で眼鏡を作らなかったわけじゃないからね」
「お客様、こちらへどうぞ」

 あくましゅうどうしが視力測定やピント調整のために奥に呼ばれると、姫は再び試着を始めた。見るからに手持ち無沙汰になった姫に、店員がにこやかに声をかける。

「お客様、どのようなデザインでもお似合いですね」
「……? ありがとう」
「彼氏さんのと似たデザインのフレームをお持ちしましょうか? 今、カップルで小物を合わせるのが魔界で流行っていますし、伊達眼鏡もお似合いかと思います」

 店員はちらっとストールを見遣った。間違いない、と確信めいたものを持って更なる営業トークを繰り広げようとした彼女だったが、姫が小首を傾げたのを見て一瞬押し黙った。意味が一切伝わっていないのがよくわかる表情だった。

「へー、そういう流行りがあるんだ。でもいいよ、私は私の好きなものしか身に着けないから。レオ君のに似てるなんて理由では買わないかな」
「かしこまりました。何かあればお声かけくださいませ。それから、あちらのスツールはご自由にお使いくださいね」
「ありがとう」

 姫は再び、のんびり眼鏡の試着をしはじめた。
 一方のあくましゅうどうしは、かすかに聞こえた店の表の会話にぎゅっと服を握りしめていた。

(彼氏とかカップルとか、否定しなかった……。深い意味は、ないんだろうけど……!)

 しばらくしてあくましゅうどうしが戻ると、姫はスツールに座って足を揺らしながら大人しく待っていた。あくましゅうどうしの姿を認めるとすっと立ち上がる。その、自分だけを待っていたという姿に彼はキュンと胸を高鳴らせた。

「……お待たせ。眼鏡が出来上がるまで、大体30分くらいだって」
「うーん、ご飯を食べるほどの時間はないね」
「いろいろなお店があるみたいだから、そこらへんをぶらぶら歩こうか」
「うん」

 姫が店を出ようとしたとき、あくましゅうどうしは後ろから手を伸ばしてドアを押し開けた。一歩店を出ると、姫はエスコートをしろと言わんばかりに手を差し出した。あくましゅうどうしがその手を下から支えるように恐る恐る握ると、姫はふっと笑った。

「私がレオ君の目になるね」
「いや、ただの老眼だからちゃんと見えてるよ」

 そう返事したものの、姫はその手を放さなかった。

「ねぇ、これでレオ君は私の顔がちゃんと見えるね」
「ん? 確かに昨日はちゃんと見えなかったけど、あれは近すぎてピントが合わなかっただけで、普段はちゃんと見えてるよ」
「でも、ソファーでお隣に座らないじゃない。見えないからだったんでしょ?」
「それは」

 もちろん、見える見えないの問題ではなく、単純に二人掛けのソファーで隣に座ると近すぎるからである。しかし、それが何故問題なのかを説明するのは一種の拷問に近い。
 あくましゅうどうしが答えに詰まっていると、姫は「それとも」と続けた。

「好きじゃないから、嫌なの?」
「違っ、違うよそれは! ひ、姫の言う通りだよ。本当に……、本当に目が悪くてね、ははは」

 どこまでも墓穴を掘っていく男である。
 並んで商店街を端から端まで歩くと、眼鏡が出来上がる時間はすぐにやってきた。わずかに疲れた様子のあくましゅうどうしに、店員がにこやかにカウンター前の椅子を勧める。

「おかえりなさいませ、どうぞこちらにお掛けください」

 受け取る前に実際に眼鏡をかけて最終チェックする。耳へのかかり方や目とレンズの距離など、最終チェックが全て終わったときに、姫が「レオ君」と服の裾を引いた。あくましゅうどうしが姫の方を見ると、昨日のように顔を両手で挟んで顔を近付けた。

「今は私の目、見える?」
「ギャー! 見え、見えるから! 放して! お店の方にも迷惑だし!」
「本当に?」
「見える! すごく綺麗。綺麗、なんだけど……ん? まだ少しピントが合ってないのかな」
「えっ、申し訳ございませんお客様。こちらで調整を」

 バタバタと再調整が行われ、彼らが眼鏡屋を出たのはお昼時のピークも過ぎた頃、予定よりかなり遅い時間だった。店の前でぐっと伸びをした姫に、あくましゅうどうしが斜め向かいにあるレストランを指差した。

「お昼を食べて帰ろうか、姫」
「うん」

 食事のメニューがはっきりと見えてあくましゅうどうしは嬉しそうに食事を選び、姫もまた楽しそうに笑った。これまで、時折メニューを読むのを諦めて誰かと同じものを頼むことがあったのに「まだ大丈夫」などと言っていたことに改めて気づく。

「姫、一緒に買いに来てくれてありがとうね。思ったよりも長くなっちゃったけど、本当に助かったよ」
「うん。これからはちゃんとかけてね」
「もちろんだよ」
(レプリカを作る魔術とかなかったかな)

 姫が選んでくれた本物の老眼鏡は鍵付きの引き出しにしまおうなどと考えている間に食事は終わった。食事のあとは姫が立ち寄りたいといった店にいくつか立ち寄り姫の買い物に付き合っているうちに帰る時間となっていた。丸一日を商店街で過ごした形になる。
 帰りの飛行ポッドは、よりクリアに見える身近な視界にあくましゅうどうしはドギマギしていたが、姫は既に寝る体勢に入っていた。あくましゅうどうしがいっそ視界がボケていてほしいと老眼鏡を丁寧にケースにしまっていると、姫はうとうとしながらも「そういえば」ともごもご言う。

「眼鏡、最後は何がそんなに合わなかったの?」
「うーん、ピントがね。何度か姫の瞳の星が二重に見えて」
「ふぅーん」

 それがピントのせいではないことに気付くのは、きっとすぐ。