キスするだけの話
「そ」
思いのほか大きい声が出て、あくましゅうどうしは一度口元を押さえながら並んで座っているソファーの端まで後ずさった。自分の太もものあたりの修道服を握りしめると、手のひらの汗がじわっと服にうつる。真っ赤な顔で腕を突っ張って俯く姿は、決して小柄ではないその体躯を小さく見せた。
一緒に食べようと出した大福と熱々の魔ほうじ茶を前に、突然の膠着状態となった。
「そんなこと、お試しで頼むものじゃないよ」
「なんで?」
姫は、あくましゅうどうしが後ずさった分のスペースに両手をついて身を乗り出した。必然的に上目遣いになるので、あくましゅうどうしは更に顔を真っ赤にして袖口で顔を隠すようにしながらのけ反った。しかしその視線はしっかりと姫を捉えたままである。
「口付けなんて、けっ、結婚式、とかでするんだよ。好きなひとと」
(……そしてそれは、私じゃない)
あくましゅうどうしは自らの心を抉りながらも優しく諭す。その声はどこまでも優しく、姫は大きく頷いた。
「わかってる。教会ででしょ。だからレオ君に頼んでる」
「ぜんっぜんわかってないみたいだけど!?」
「ふぅ」
姫は、少し肩を竦めて見せた。まるで「分からず屋だなぁ」とでも言いたげな顔であるが、あくましゅうどうしからしてみれば分からず屋なのは姫の方だった。しかし今回は、あくましゅうどうしであることにこだわっている風なのでマシな方である。
「また説明を省いたって思ってるんでしょ。最初から説明するからね。特訓した甲斐あってかいふくチェリーの茎を結べるようになったの。……レオ君は特訓のこと笑うけど」
「それは、あの、別に嘲笑うような意図はないからね」
「結べるということは、私はキスが上手ということ」
「それにもちょっと疑問が……」
「だからキスしてって言ってるの。私は特訓の成果が見せれて、本当かどうかもわかって一石二鳥でしょ。教会だし」
「結婚式って言ってるのは、場所の話じゃなくてTPOの話だからね」
(ていうか姫、結婚式は教会派なんだ)
「とにかく、姫のためにもだめなんだよ」
最後に意識が大きく逸れたものの、あくましゅうどうしは改めてしっかりと断った。姫は納得いかないという顔で「ぬぅ」としか言わなかった。これ以上言ったら部屋から放り出されると察した姫は、黙っておやつに出された大福を手に取る。白い粉をまとった柔らかな大福を見つめる姫を、あくましゅうどうしは横目に見たままひそかにため息をついた。
「……」
大福をかじるでもなく、ぷにっと唇に当てる。あくましゅうどうしはぎょっとしたが、姫は気にせずに少し離した大福をまた唇に押し当てる。
(……? べろ、使わないな)
求肥についていた餅とり粉が少し姫の唇にうつってしまっていた。姫がそれをぺろりと舐めとると、あくましゅうどうしは目を伏せながら、同じように手に持った自分の大福を見た。
(もはや目の毒……)
一度大福を置いて、すっかりぬるくなってしまった魔ほうじ茶を飲み干す。
無防備にも程がある。
何かの罠ではないかとすら思うほどだが、この姫は驚くほど率直な人間である。先程の突拍子もない話もおそらく本心から言っているのだろう。
(だけど、これだけは本当に止めないと)
「あのね、姫。さっきの話だけど」
強い決意のもと注意をしようとしたあくましゅうどうしだったがむにっと唇に当たる感触に遮られた。目を見開いたままのあくましゅうどうしが目だけ動かすと、姫があくましゅうどうしの大福を彼の唇に押し当てている。
大福にかじりつくと、姫はその手を放したので慌てて手で支える。
「べろ、使わない」
「……うん」
「もしかして、やり方が違う? 今までもそういえば使ってない」
「今までって、だ」
誰と、と聞こうとしてあくましゅうどうしは口を噤んだ。姫は「だ?」と言って首を傾げている。
(そもそも、私は姫の何でもないんだ)
それはもう、一種のルーティンのような自分の心を切り刻む戒め。
この少女に想いを寄せていることは、おそらく相手もわかっていて、許されている。許されてしまっている。だからなのだろうか。独占欲は留まることを知らないのは。
(……でももしも、魔王城の魔物なら大問題。さりげなく聞き出すのは幹部の務めのうちに入るだろう)
一体誰に対しての言い訳なのか、あくましゅうどうしはうんうんと頷き、自分の分の大福を食べ始めた姫に向き直ってにっこり笑った。
「誰としたんだい?」
「母上。あっ、あと父上も」
「あぁ、ご両親……」
「でも考えてみれば二人にはほっぺたにキスだったから、違うよね。だから」
そう言って、姫はあくましゅうどうしの太ももをまたいで座った。あくましゅうどうしはひっと息を呑み、まるで音を遮ろうとするかのようにそのまま止まりそうな心臓のあたりをそっと押さえた。
一度ぐっと拳を握り、そっと姫を膝から下ろそうと肩を掴もうとすると、姫はその手を振り払った。
「姫!! だめだよっ」
「触らないで」
姫がぴしゃりと言うので、もう一度彼女を押しのけようとしたあくましゅうどうしはぴたっとその手を止めた。
触らないでとはいっても、密着しているのは姫の方である。あくましゅうどうしが困り果てて姫を見遣ると、彼女はニヤッと笑った。
「『人質を傷付けてはならない』でしょ。だからレオ君は私を突き飛ばしちゃダメ」
「突き飛ばしは、しないけど……」
姫はあくましゅうどうしの両肩を掴んで、彼の顔に自らの顔を寄せた。あくましゅうどうしは最後の抵抗とばかりに首が痛くなるギリギリのところまで顔を背けたが、すぐに姫がその顔を両手で包み正面を向かせる。
あくましゅうどうしは顔が火照り、逆に手足は冷えていくのを感じていた。
「だ、だめ。本当にだめ」
うわ言のようにだめと繰り返すあくましゅうどうしの目がじわじわと潤んできていた。姫はそんな彼を見ても微笑むばかりで、彼の膝の上から下りようとする気配は一切ない。それは、本当は彼女をどかすことは容易であると知っているが故である。
「泣かないで。痛くないから」
言うが早いか、姫はむにっと唇を重ねた。柔らかな唇を重ねただけのそれは、無音。まるでただの事故のようだった。
「どう? 上手?」
「……えっと」
あくましゅうどうしが言い淀んだことで姫は口を尖らせた。あくましゅうどうしにその不服そうな顔を見る余裕はなく、へらりと笑って見せた。
「上手、だったよ。もういいよね?」
あくましゅうどうしが姫を抱き上げて膝から下ろそうとすると、姫は手を伸ばし彼の首根っこを抱き寄せた。抱き合う格好になり、結果的に先程より密着している。
「ひ、姫……? そろそろ本当にまずい――……」
あくましゅうどうしの言葉を飲み込むように、姫はもう一度口付けた。喋っていた途中のあくましゅうどうしはとっさに口を閉じたが、彼の唇により姫の柔らかい唇がぷるんと揺れた。
姫がちゅっとあくましゅうどうしの唇を吸い、顔を離しながらぺろりと唇を舐めて見せた。それは小悪魔のようで、あくましゅうどうしは顔を真っ赤にして俯く他なかった。
「もういいでしょ……。これ以上は、もう」
「上手だった?」
「なんでそんなにキスが上手いかどうかにこだわるの?」
「え、だって上手だとね、すごくよく眠れるんだって。でもほら、キスだから……。誰にでも頼めることじゃないでしょ」
だからね、と言いながら姫はまた口付けた。
あくましゅうどうしは少し混乱していた。どうやら姫は、キスは特定の相手とするものという意識があるようで、その上であくましゅうどうしをその相手として指名しているらしい。
許されている。その上、彼女を傷付けないためという抵抗しない理由まで与えられている。
「うーん、眠れる気配はないな。やっぱり上手じゃない? ……あ、レオ君からしてみてくれる?」
「え……」
「一回も二回も同じでしょ」
(正直なところ、ムードも何もないので照れくさくはあるしドキドキはしているけど姫を怖がらせるような反応はしていない。これなら、大丈夫かもしれない)
そう思ったのは、姫のサラサラの髪が彼の頬をくすぐったときだった。とにかく拒否をするという考えを改め、とにかく姫の気の済むようにして早く帰ってもらおうという考えにシフトする。
「……わかったよ」
姫が瞳をキラリと輝かせる。彼女の顔を引き寄せたあくましゅうどうしは、ギリギリのところで踏ん切りがつかず頬に軽く口付けた。
姫は不服そうだが、真っ赤になったあくましゅうどうしは姫の肩に額を乗せてため息をついた。
「ごめん、やっぱり無理だ……。姫にはその……、そういうの、大切にしてほしい」
「……。わかった」
あくましゅうどうしが顔を伏せたまま「ごめんね」と呟く一方で、姫は彼が口付けた頬をおさえながら自らがキスしたときよりも数倍真っ赤に頬を染めていた。
姫はするりと彼の膝の上から下り、魔ほうじ茶を飲み干し、警戒した猫のような俊敏さで部屋を出ていった。
(頬っぺたの方が、ドキドキした。なんで?)
バタバタと自分の牢へ帰りながら、姫は先程のことについて考えていた。しかし牢に辿り着く直前で「あ」と声を漏らし立ち止まる。
(私は眠れなかったが、……上手いかどうかは、レオ君がよく眠れているかどうかでわかるのでは)
「……何もいっぺんに検証する必要はないか」
着替えや歯磨きを済ませた姫は、再び地下へと戻ることにした。そして、細い横穴であくましゅうどうしが寝るのを待つ。しばらくぼうっとしていたあくましゅうどうしだったが、姫が観察を始めてすぐにふらふらとパジャマに着替え始めた。
「……本当に……姫は……目の毒だ」
(……レオ君、私のこと見たくないほどキライだったのかな)
本来なら寝るには早い時間だったが、あくましゅうどうしは小さな小瓶を取り出しそれをぐいっと煽りいつもより早くベッドに入った。
「……疲れた……」
ぼそっとこぼした後すぐに寝息を立て始める。
姫が通路から抜け出して小瓶を見てみると、どうやら睡眠薬の類を飲んで無理矢理寝たらしかった。市販のもので、そこまで強い効果の物ではないようだが姫のキスでよく眠れるというわけではないのは確かで、姫は「だめか」と呟いた。
*
あくましゅうどうしは傍に立つ気配にすぐに気付いた。唇にむにっと柔らかいものが当たる感触があって目を開くと、姫がまたもや唇を重ねていた。
「……夢にまで出てきた」
「そう、夢だよ、レオ君。私よく眠りたいの」
「夢の中でも寝たいのかい?」
「レオ君は見たくないのかもしれないけど」
「見たくない……のかな。そうだね、見てるともっとほしくなる。それはもう目の毒だよ。でも、見ていたい。私はやっぱり君のこと、本当に……」
あくましゅうどうしは夢の中でも自分にはそんな勇気はないと思っていた。しかしどこか投げやりな気持ちでそっと姫の腰に腕を回しベッドの横に立つ姫を抱き寄せ、もう一方の手は彼女の首のあたりをそっと支える。
姫が顔を離そうとするときに首を支えている手で軽く押さえ、柔らかな唇をちゅっと吸う。そのまま何度も唇と重ねると、姫が小さく吐息を漏らした。小さな口が開いた瞬間、舌をそっと唇の裏の皮が薄い部分をなぞる。姫はぴくっとわずかに体を強張らせた。それでもやめることなく、姫の口内に舌を差し込む。小さな舌に絡ませると、姫は小さく「んっ」と声を漏らした。
「レオ君、なんか、あの」
首筋を強く吸うと、姫はびくっと体を震わせた。
「なんか、へん」
(……リアルな淫夢だな……)
温かな細い体を抱きしめる感触も、舌に纏わりつく感触も嫌にリアルだ。
(もしかしたらどこかのはぐれ淫魔が入り込んだのかな)
魔が差した。
本来、姫の姿をとって騙そうとする悪魔など、あくましゅうどうしが許すはずもない。しかし彼の中の悪魔が実際に姫を怖がらせるよりも随分マシだと囁いた。
(淫魔相手なら、まあ……、取引と思えばいいか。このどうしようもない熱を奪ってもらえるならそれはそれで)
起き上がり、姫をベッドに抱き上げ、自分の左の太ももにのせる。再びキスをすると、小さな唇はとろけるように熱くわずかに彼女の息は上がっていた。
短い舌を吸うと、姫は少し腰を引いた。わずかに太ももがしっとりと熱い。あくましゅうどうしは執拗に舌を吸いつつ、ぐっと太ももを持ち上げた。
「あっ」
びくっと腰を引いた姫が、嫌がって膝立ちになる。腰に回したままの腕は緩めることはなく、ただ姫の熱い口内で逃げ回る舌を追いかけると、歯磨き後のミントの爽やかな香りが鼻に抜けていく。互いに口の周りは混ざり合った唾液でべちゃべちゃだった。
何度か逃げようとした姫が脱力してあくましゅうどうしの胸に体を預ける。
(え、全然欲がなくなってないのに……。淫魔が先に満腹でダウンなんて聞いたことない)
そこでようやく、一つの疑念が浮かんだ。
(夢でも淫魔でも、ないんじゃ……?)
姫は既に浅い呼吸のまま腕の中で夢の中に旅立っている。
あくましゅうどうしは声にならない声を上げて気絶し、起きた時には姫は既にいなかった。あくましゅうどうしがこの世の終わりのような青ざめた顔で姫の牢に赴くと、改が腕を組んで姫に何か言っていた。
「それ、人間界に行ったときの服じゃないか。また脱走するんじゃないだろうな」
「ぬぅ。今日はでびあくまとピクニックするんだもん」
「ピクニックか……。場所によっては許可しなくもないが……」
「あっ、おはようレオ君。炊き込みご飯でおにぎりを作って持って行きたいんだけどある?」
「……あ、おはよう。あるよ……」
(いつも通りだ……。え? あれは、やっぱり夢……?)
どちらなのかよくわからず、かといってわざわざ尋ねることもできないあくましゅうどうしは、ますます姫への耐性をなくした気がするのだった。