「レオ君のえっち」
「姫、あのね、昨日のことなんだけど」
「レオ君のえっち。しつこいんだから」
「えっ!?」
あくましゅうどうしの息が止まった瞬間、食堂の音という音は消え失せたように感じた。
えっちと責め立てられるようなことは邪神に誓って何もしていないし、むしろ不法侵入の被害者――もはや姫のためのお菓子も食器も常備しつつあるが、それでも招かなくても入ってくるのだから体面上いつまでもそういうポーズでいたい――なのだが、そう信じてももらえないほどに、あくましゅうどうしの信用(対姫)は地に落ちている。そして彼はその自覚が多少あった。これ以上信用を落とすわけにはいかないと必死に胸の前で手を振り、否定の姿勢をとった。
「何も……、何もしてないよね」
「え、いっぱいしたじゃん」
あくましゅうどうしの必死の訂正にも、姫は首を傾げる。
周囲はヒソヒソと「うわぁ」とか「実際聞くとやべぇな」とか声を漏らした。
「まぁでも、しつこそうではある」
「今言ったの誰!?」
あくましゅうどうしは貧血気味にふらふらと手近な椅子に座り、気力を振り絞ってその蒼白の顔に笑みを浮かべた。内心穏やかではないが、焦ると真実味が増してしまう。彼は冷静に「姫」と呼んだ。が、その声はわずかに震えていた。
「お……、お説教がしつこいって……話だよね? ごめんね」
「あ、ウン。えーっと、や……ヤギさん!!」
「あ、うん。私は汚い山羊だね……。でも、私は誓って姫を気持ち悪い思いをさせるようなことはしてないと思――、いや、それは姫の受け取り方次第だもんね」
周囲の魔物が不憫そうな目を向ける中、あくましゅうどうしは顔面を片手で押さえながら今にも倒れそうにふらふらと食堂から出て行った。
あくましゅうどうしが食堂から出ていくと、姫は周囲の魔物を振り返った。その表情はどうだと言わんばかりである。
「どう? けんか、できてた?」
「いやぁ、ちょっと攻撃力が高すぎてケンカというよりはリンチだったな」
「えぇ……?」
はりとげマジロもやしき手下ゴブリンも気の毒そうな顔をしていたし、フランケンゾンビは爆笑している。何か間違ったらしいと姫が気付くまでそんなに時間はかからなかった。
「あれ? あくましゅうどうし様? 茶碗蒸し待たずに帰っちゃいました?」
「なぁ、何かあった? 外であくましゅうどうし様が倒れてたけど」
ナーミエがあくましゅうどうしを探しているときにミノタウロスが入ってきて、全員が頭を抱えた。
ことは数時間前にさかのぼる。食堂にて、姫は珍しくポセイドンの向かいに座った。ポセイドンは見るからに不審そうな顔をしながら、無視して茶碗蒸しを頬張っている。
「今日の安眠のために、けんかをしたいんだけど」
「はぁ? オレと?」
「ううん。レオ君と。誰かと仲良くすると安眠ができるらしいんだけど、『けんかするほど仲がいい』って言うし、もっと仲良くなったらもっといい眠りがあるはず。他の子とは理由がないけど、幸い、昨日のお説教が長すぎてレオ君とならけんかの理由はある」
「最近無法状態だったのに長く説教されるって、何したんだよ」
「……」
姫は何も答えずにニコッと笑った。ポセイドンは青い顔をさらに青くして「やっぱ言わなくていい」と言った。
「で、なんでオレにそれを言うんだ」
「君、よく兄弟げんかしてるし、お口も悪いでしょ。いい悪口を教えて」
ポセイドンはイラっとした顔をしたものの、すぐにニヤッと笑った。茶碗蒸しを一口頬張って、飲み下すまでにじっくりと考え、それからうんうんと頷きながら答える。
「あー……、そうだな、そういえばジジイの実家に行ったとき全然罵れてなかったな。いい言葉があるぜ」
「なになに?」
「『レオ君のエッチ』って言ってみろよ」
「どういう意味?」
「意味わかっとく必要はねーだろ。心当たりがあるやつには効くんじゃねーか? じゃあな、結果は教えてくれなくていいから」
ポセイドンが茶碗蒸しの容器を片付けて食堂を後にすると、何体かの魔物はさすがに止めようと姫を囲んだ。ポセイドンの言う通り心当たりがなければ問題ないかもしれないが、せめて衆目の前で言うことは止めた方が全員が心安らかになることは間違いない。
「食堂ではやめた方がいいぜ姫」
「そうだよ姫、悪口なら他にもいっぱいあるし」
「あ、レオ君が来た。よし!」
そして、先ほどのケンカ基、やしき手下ゴブリンの言うリンチに繋がったのである。そんなわけで食堂の周囲にいた魔物はあくましゅうどうしよりも事態を理解していたが、あくましゅうどうしはそれを知る由もない。
姫はしょんぼりしながらはりとげマジロのお腹を揉んだ。
「だめだったの? ……私もモヤモヤして眠れそうにないんだけど」
「そうだなぁ……。あぁほら! ケンカって謝るまでがセットなんだぜ、姫」
「!! そっか、まだ途中なんだ!」
「そうそう。謝るのは早い方がいいし」
「行ってくるね!!」
姫が顔を輝かせてあくましゅうどうしを追いかけるのを見送りつつ、やしき手下ゴブリンは苦笑しながら姫がしていたようにはりとげマジロのお腹の肉を掴んだ。
「保護者力がやべぇな」
「肉を掴むなっつーの!!」
姫が悪魔教会へと辿り着いたときには、その扉は固く閉ざされていた。扉には、あくましゅうどうしが出張のときに部屋にかかっていることが多い「あくましゅうどうし出張中」の看板がぶら下げてあった。
「出張だったのか……。タイミング悪かった」
「あれぇ!? 出張!? あ、姫おはよー」
「……おはよう」
さっきゅんはまだ少し眠そうで、髪の毛もところどころ跳ねている。急いで悪魔教会に来たようだった。
それもそのはず、本日は影武者の給料をもらう日だった。いつもは出張等でいない場合は前倒しして渡されるので多少の違和感はあったが、さっきゅんはその違和感を口にしなかった。
「あくましゅうどうし様、出張中なんだね」
「うん。あ、そうだ。君に聞きたいことがあるんだけど」
「なーに?」
「エッチって言われたら傷つく?」
「んー? 別に? 誉め言葉だよね」
姫は腕を組んで首を傾げた。
さっきゅんが姫の牢に場所を移して話すことを提案し、二人は悪魔教会の前から揃って歩き出した。
「いい悪口って教えてもらったんだけど」
「悪口に良い悪いないでしょ。全部悪いよ」
姫はハッと口元を押えた。
「……そうだね、悪口なんて全部悪い……。私、言っちゃった。レオ君を傷付けたんだ……」
(どおりで眠れないはずだ。このモヤモヤは覚えがある……、ひとを傷付けた、後味の悪さ……)
姫が唇を噛むと、さっきゅんは身を乗り出して目を輝かせた。
「え!? あくましゅうどうし様にエッチなことされたの!?」
「ううん。悪口言ったの。けんかしたくて。あとそれも聞きたかったんだけど、エッチってドスケベ以外に意味ないよね?」
「……? どういうこと? あとドスケベはなんとなく嬉しくない」
さっきゅんに事情を話すと、「あー」と声を漏らした。その声の高くもなく低くもないトーンに姫は少しずつ落ち込んでいっている。
「そういうことか、ポセイドン様にイタズラされたんだぁ」
「えっ、いたずら?」
「そうだよ、あくましゅうどうし様が姫にエッチなんて言われたら壁に頭をガンガン打ち付けて叫びだすに決まってるんだから」
「……そうはならなかったけど」
「ショックだったんだよね。てことは、出張って言って休んでるのかも。休みなら誰か訪ねてくるかもしれないけど、出張中って言っとけば誰も来ないし」
「じゃあ、謝りに行けるね。とげちゃんが謝るのは早い方がいいって言ってた」
「うん、早い方がいいよ」
(その方が早くお給料もらえそうだし)
さっきゅんは満面の笑みで姫を送り出した。
姫はまっすぐにあくましゅうどうしの部屋に向かった。しかし、彼は部屋ではなく教会の方に引きこもっているらしく、部屋はがらんどうだ。
冷たい静寂に満ちた部屋で、姫はしばし悩んでベッドに座った。
「……どうせなら、誠意を見せるか」
急いで悪魔教会の方へ行く選択肢もあったが、裁縫道具を取り出し、いつものメッセージ枕を作り始めた。
一方、あくましゅうどうしは教会において、顔面蒼白で祈っていた。
(もう、記憶を消すとか、そういう対処が必要なところまできているのではないか)
――レオ君のえっち。
あの表情はなんだったのだろう。軽蔑でもなかったが、照れとは程遠かった。そんなことをぐるぐる考えてしまい、頭を真っ白にしようと仕切り直して再び祈る。
出張という嘘をついた悪魔教会に訪問する者はなく、好きなだけ考えることができた。ちなみに魔王には休むときちんと伝えている。
「だめだ、部屋に戻ろう……。落ち着いてから術を使わないと」
部屋に戻ったあくましゅうどうしは、ヒッと息をのんだ。
姫が、ベッドで寝ていた。先ほどの批難は何だったのかと思うほど、堂々と寝ている。
「ひ、姫っ! ……あ」
姫の周りには、ごめんねという文字が一文字ずつ入った枕が散乱している。その枕を一つつまみ上げると、枕を抱き寄せようとした姫の手がすかっと空を切った。
「……謝るのは私の方ではないの?」
触れて揺らすわけにもいかず、どう起こすべきかあくましゅうどうしが悩んでいると、姫は猫のように伸びをして目を開いた。
「……寝てた。……あ、レオ君!」
「姫、私のこと」
「ごめんね!!」
姫はベッドの上で立ち上がり、あくましゅうどうしを少し見下ろしながら両手を合わせた。
「あのね、レオ君とけんかがしたかったの。もっと仲良くなりたくて」
「……え」
「でも、ただ傷付けるだけになっちゃって……、本当にごめんね」
「……え……、え……? じゃ、じゃあ、私のこと、え……エッチで、嫌いなんじゃないの?」
「えー、レオ君がエッチだと思ったことなんて……」
姫はじっくりと思い返し、数秒溜めた。「ない」と続け、と祈るような気持ちでいたあくましゅうどうしだったが、みるみる頬を赤らめる姫を前に目を見張った。
「そういえば、温泉を掘ったとき……、裸、見た……」
「あれは」
「……レオ君のえっち」
真っ赤に頬を染めて目をそらす姫を前に、あくましゅうどうしも今度は血の気が引くどころか、逆に頭に血が上ってきていた。姫と同じくらい頬を染め、酸欠のように口をぱくぱくと開いたり閉じたりしたものの声がうまく出ない。夢に出そうな衝撃だった。
(ベッドの上で、照れながら言われても、それはそれで死ぬ)
「……レオ君はエッチだけど、でも、嫌いじゃ……、あ! エッチなレオ君がいいというわけではないけど!!」
「よくわからないけど、食堂でのことは、冗談だったってことでいいのかな」
「ウン。ごめんね。サキュンに言われたの。いい悪口なんてないって。本当にそうだなぁと思って。当たり前のことなのに、安眠のために抜け落ちてたの」
「座って、ゆっくり今日の安眠の計画を聞かせて」
ベッドの上で立ったまま反省し始めた姫の前にすっと手が伸びてくる。それは舞踏会でのダンスの誘いに似ていた。
一瞬驚いたものの、姫はすぐに笑顔を見せてその手を取った。
「……うん!」
その後、はりとげマジロに仲直りしたことを指摘されると、姫は嬉しそうに「おかげでレオ君のベッドでよく寝れた」と答え、維持できていたはずのあくましゅうどうしの信用はまた下がったのだった。