Mymed

アナザー旧魔王城と脱獄姫

 ほれ、と睡魔が徳利を突き出してくるので、あくましゅうどうしは髪をかき上げてこめかみを押さえつつ、杯を差し出した。トットッ、と小気味よく注がれた酒を煽ると、睡魔がまた徳利を差し出す。そしてまたあくましゅうどうしが杯を差し出そうとすると、後ろから何かぶつかるような軽い衝撃があり、彼はかくっと前に倒れた。
 のろのろと見上げてみると、呆れた表情のハデスが後ろに立って見下ろしていた。
「またこんな時間から酒盛りか」
「癖になっちゃったね」
 あくましゅうどうしがへらりと笑うと、ハデスは短く息を吐いた。魔王城から旧魔王城にやってきてすぐのときは魔王に嫌われたに違いないと鬱陶しいくらいに落ち込んでいたが、旧友だという睡魔に世話を任せていたらすっかり酔っ払いになってしまった。ハデスが魔王城に身を寄せる前のあくましゅうどうしはもっと悪魔の里出身らしい言動だったというので、その頃に戻るよりはいいのかもしれない、素面のときは仕事を片付けるのも協力してくれるし、と目をつぶっているが晩酌の時間が徐々に増えてきたのはハデスの新たな悩みの種になりつつある。
 ハデスが何か言いかけたが、睡魔が首を傾げて遮った。
「その抱えているものは何だ?」
「あぁ、『コレ』か」
 あくましゅうどうしも睡魔の視線をたどって振り返る。ハデスが左手で抱えていたのは、でびあくまだ。むーと鳴きながら愛敬を振りまく可愛い魔物に、酔っ払い達は気を取られもふもふと触り倒す。
 そして反対側、ハデスが右手で抱えていたものは、ぐったりと力なく腕と足を垂らしている。銀色の髪はパサつき、服も靴も泥だらけだ。顔は髪で隠れてよく見えないが、おそらく魔物ではない。
「人間……?」
「タソガレが人間界からさらってきた姫だ。脱獄したんだろう。森ででびあくまを枕にして倒れていた」
「ハデス君、どうするつもりだい?」
「……タソガレに引き渡すか、人間界の近くまで帰すか。結論が出るまでは匿うつもりだ。このまま飲むなら起きるまで見ててくれ」
 人質の姫ではあるが、牢には入れず応接室にベッドを運んで寝かせることになった。応接室をついたてで半分に仕切り、姫が起きたら気付くようについたての裏で二人の酒盛りは続行された。しかしあくましゅうどうしが酒を飲むペースは格段に落ちていた。睡魔は半分寝ているような状態で、ちびちびと酒を舐める。
 ハデスが片手で抱えられるほどの少女は、あくましゅうどうしがすり傷だらけの手や膝を魔術で治した時もそうだったが、睡魔が完全に寝落ちた後もこんこんと眠り続けていた。
 あくましゅうどうしはぼんやりと座ったままだった。無駄なことを考える時間だけは、腐るほどあるのだ。
 
「うーん……」
 姫がぐっと伸びをして起き上がるとベッドの上だった。さぁっと血の気が引くのを感じつつ、姫はあたりを見渡す。
(連れ戻された……!?)
 うまく魔王城から逃げ出せたはずだった。脱獄は長期的に計画したもので、同じ手はもう使えないだろう。そう考えると、姫が絶望するのも無理からぬことだった。
 しかし、姫がいるのは冷たい風が吹きすさぶ石の床の牢ではない。状況を把握しようと逆方向へと目を遣ると、あくましゅうどうしが食事を持って立っていた。敵意がないことを示そうと柔和な笑みを浮かべるあくましゅうどうしだったが、姫の目には魔物っぽくないと映った。魔王城において、多くの魔物は姫に冷たかったし、笑顔を見せることなどなかった。
 あくましゅうどうしが食事を差し出し、ついたての裏から睡魔が寝ている向かいの椅子をベッドの横に持ってきて座った。姫は彼の行動の意図がわからず、王族の証である星が浮かぶ瞳をぱちりと一度大きく瞬きし、「監視か……」と呟いた。
「ここは旧魔王城。あなたを見つけたことはまだタソガレ様――……魔王様には伝えていません」
 あくましゅうどうしの言葉に、姫が顔を上げた。角があり、しっぽがある。どう見たって魔物だ。その魔物が、魔王に協力しないことがあるだろうか。姫は訝しんで男を見たが、あくましゅうどうしはにっこり笑って再び食事を差し出した。
「ご飯をどうぞ」
「……信じ……られない」
「魔王城でも危害は加えられていなかったでしょう?」
「そこそこ丁重ではあったが……、だからと言って大人しく捕まっているままではいられない」
「そりゃあ……、そうだ」
 あくましゅうどうしがリラックスするように深く腰掛けるので、姫はひそやかに眉をひそめた。
(……食べるのを見届けるまで去らないつもりか)
 姫はそう考えて、食欲はあまりなかったが食事に手をつけることにした。魔王城でも人質としては良い食事であったが、他の人質の食事事情を知らない姫は(こちらは肉が多いな)という感想を持っただけで食べられないことはない。
「……タソガレ様は……元気でしたか?」
「……? ……魔王が牢に来たことはないし、元気かどうかは知らない」
「そっか……。姫、デザートにおはぎを食べますか?」
(なかなか去らないな……。食べ終わったら護身用の爆弾を使って逃げようかな)
 返事もせずに確かまだあと一つあったはずだ、と姫が考えていると、今度はハデスがやってきた。
「……!」
(この魔物は手強そう……。マントもあるし、魔王に似てる……?)
「起きたか」
 ハデスがじろりと見ると、姫は少し体を震わせた。ある程度の護身術は習っていて、よく筋もいいと褒められる姫だが、実戦したことはほとんどない。二体の人型の魔物。それも見上げるほどの大男相手に身がすくまないわけがなかった。
 しかしハデスはそんな姫を気にも留めず、あくましゅうどうしを見てふんと鼻を鳴らした。
「やはり世話は焼かれるより焼く方が好きなようだな。このまま人質の世話は任せる」
「はい、了解」
「そろそろ人質の姫が消えたことをポセイドンが報せに来るだろう。あいつは嘘が吐けないから、とりあえず見つけたことは隠す」
「わかった」
(本当に、報告していないのか)
 驚く姫をよそに、ハデスは「仕事を片付ける」と言い残して応接室から出ていった。それを見送り、あくましゅうどうしは再び姫に微笑みかけた。
「泥だらけだからお風呂に入りますか、姫?」
「……は?」
 
 ハデスの予想通り――とはいえ、その時間は予想よりもかなり遅く、ポセイドンが旧魔王城にやってきたのはハデスが姫を見つけて連れてきた翌日の昼過ぎのことだった。その間、姫は旧魔王城での食事に戸惑うこともなくなり、お風呂も二回入った。あくましゅうどうしが勧めるおはぎも、ついに根負けして食べたくらいだ。
 魔王城では昨日、脱獄して既に旧魔王城にいる姫と出張中ののろいのおんがくかが目撃され、姫がいないことに気付くまでに一日のブランクがあった。そのために姫はハデスが散歩するような場所まで逃げて来れたのだが、全員知る由もない。
 その初動の遅れよりも旧魔王城幹部とでも呼ぶべき面々を動揺させたのはポセイドンがワープで現れた場所だった。いつも通されるからなのか、応接室に現れたのだ。さすがの睡魔もその姿を認めた時は「おや」と声を漏らしたほどだった。睡魔がハデスを呼びに行く間に、ポセイドンがついたての裏側を覗いたりしないようにあくましゅうどうしがポセイドンを捕まえておくことになった。
 慌ててやってきたハデスは内心ハラハラしながら驚いて見せた。なにせポセイドンが背にしているついたての裏には、その人質の姫がいるのだから、さしものハデスも冷や汗ものである。しかし知らぬ存ぜぬを通したハデスを不審がるポセイドンではない。
 あくましゅうどうしはハデスが到着したタイミングでついたての裏に戻り、お風呂からあがって髪を乾かした姫の髪に櫛を通している。姫は自らも抱きかかえるでびあくまをブラッシングしている。
「じゃーな、兄貴」
「あぁ、気を付けてな」
「……!」
 姫がようやく我に返ったのは、兄弟が別れの言葉を交わしたときだった。
(心を許し過ぎた。そろそろこの旧魔王城からも逃げ出す方法を考えないと)
 それもこれも、後ろで甲斐甲斐しく世話を焼くこの角の生えた男のせいだ、と姫は思った。彼が優しすぎるのだ。
「ねぇ、執事さん」
「私は羊ではなくヤギ――」
「私はどうなるの?」
 姫の質問に、潤いを取り戻した美しい銀髪に櫛を通していた手を止める。
「正直に言うと、今のタソガレ様に姫を引き渡すのは危険――……でも、我々は反乱を起こしたいわけじゃないから、悩ましいですね」
 そう言って、再び櫛を通しながらこう続けた。「逆に、姫を人間界に帰して人間の侵攻を勢いづかせるわけにもいきませんしね」
(……)
 姫は少しだけ首を傾げる。寝る時に広がらないように髪の先にリボンを結び、あくましゅうどうしは「よし」と小さく呟いた。
「さぁ、今日はデザートにお饅頭はいかがですか?」
「いらない」
(執事ではなくじいやなのか? さすがに太らせて食べようなんてことはないと思うけど)
 レパートリーもそうだが、執拗に物を食べさせようとしてくる行為がじいやを思わせた。
 姫はでびあくまを抱きしめながら考え込んだ。この旧魔王城は魔王城ほど居心地が悪いわけではないが、ここにいる魔物たちは身動きが取れないようだ。となると、やはり姫は自力での帰還を目指す方が良いのかもしれない。
(このじいやは頼んだら護衛してくれそうだけど)
 再びの脱走を心に決めながら、姫はベッドに横になった。
「……寝る。おやすみ」
「おやすみなさい、姫」
 姫はでびあくまを抱きしめながら、スヤァ……と夢の世界へ旅立とうとした。一方のあくましゅうどうしは、姫が食べなかった饅頭を咥えながら姫に布団をかけた。
 すぐに姫が健やかな寝息を立て始める。魔王も昔はこんな風にすやすやと寝ていた。おまもりふだを縫い付けた布団は盗まれたと聞いたがおそらく魔王が自分で捨てたのだとあくましゅうどうしは考えている。饅頭に八重歯を突き立て、魔王に距離を置かれ始めた時の苦々しい記憶に蓋をする。
(タソガレ様は、きちんと寝ているだろうか。……いや、彼女がここにいる時点できっと)
 ポセイドンからの近況報告はいいものとは言えなかった。さらった人質の姫が脱獄したのなら、きっと魔王は更に疲弊する。それでも、姫を差し出そうとは思えなかった。それは彼のためでもある。
 ついたてを挟んで置いているテーブルセットに戻ると、相変わらず睡魔が寝ていた。向かいに座ると、残っている酒を口に含み、口に残った餡を流し込む。
(あれから、十年か)
 あくましゅうどうしが最後に会った魔王はまだ幼体だった。立派に成長した魔王は強く、誰も逆らえないのだという。一緒に育ったポセイドンさえ、遠ざけられているらしい。
 頼りがいのある魔王になったことは喜ばしいが、やはり、姫を魔王城に戻すわけにはいかないという答えに帰結する。彼女が更に厳しい監視下に置かれるであろうことは明白であり、激昂した魔王の対応は、今のあくましゅうどうしには想像がつかない。
「どうにか、誰も傷付かない道を見つけられないものか……」
 のん気に寝ている睡魔を起こしながら、あくましゅうどうしは魔王の健康を祈っていた。
 
 あくましゅうどうしの独り言を、姫は寝たふりをして聞いていた。
(じいやは人間が魔界に侵攻していると言ったが、魔王軍の方が人間界に侵攻しているはず)
 そこに何か誤解があることに賭けるには、まだ少し情報が足りない。
 しかし、あくましゅうどうしに言われて思い返してみれば魔物からの扱いは冷たくはあったが丁重ではあった。
(そういえば、何のために私を誘拐したのだろう。私は魔族側の要求も知らない)
 何か調べれば、何か動ければ、違うのだろうか。姫の脳裏にはそんなぼんやりとした予感がある。
(人類の姫たる私が平和的解決を模索するのは、当然のことだ)
 ただの被害者になどなるものか。
 大きな公務を控えたときのように、小さい頃の遠出する前日のように、姫はこれからのことを考えるとわくわくして上手く眠れないのだった。