Mymed

兄も淫魔

 幹部候補と名高い淫魔のいっきゅんが砦から帰還してから数日、彼女は彼にべったりだ。いや、べったりというか、世話を焼き続けている。
 オレも姉さんの世話を焼いてしまう方なのでわからなくもない。だが、わからなくもないからといって会えなくて仕方ないとは思わない。まだ数日なのにこんなに“取られた”と思うなんて、思わなかった。

「お兄!」

 さっきゅんの声は、どんなに小さくてもどんなに遠くてもよく聞こえる。最近はもっぱらお兄さんを叱る声ばかりだ。
 声のする方に歩いていくと、廊下で寝そべるいっきゅんと必死に起こそうとするさっきゅんがいた。

「さっきゅん、少しいい?」
「あ、のろいさん! あの、ごめんね、最近」

 いっきゅんが閉じていた目を開く。目が合うというよりも睨まれているように感じるのは、たぶん気のせいではない。オレだって姉さんによく知らない男が近付いたら見定める。
 ではどうすべきかというと、よく知らない男でなくなればいいはずだ。付き合っているという挨拶はしないまでも、普通に自己紹介くらいは。

「あの、オレ、今日は内科医をやってる、のろいの――……」
「ふぁ」

 いっきゅんはあくびをしながら、オレにてのひらを見せた。ストップ、というように。
 それからゆっくりと起き上がる。背が高く、見上げてしまう。オレも見た目や立ち居振る舞いには気を付けている方だと思うけど、所作に色気がある、と思った。同性のオレですらそう思うのだから、きっと淫魔として本当に優秀なのだろう。

「君が名乗ろうとした理由はわかってる」

 彼は静かにそう言った。ならば、きちんと付き合っているという報告をした方がいいだろうか。
 さっきゅんは渡さないとか、そういう言葉が続くのだろうか。こんなに緊張するのは自分にしては珍しい。
 オレがゴクリと唾をのんで、「……じゃあ、改めて名乗らせてもらいますけど」と言うと、いっきゅんは親指を立てて見せた。

「もちろん、オレは男も大丈夫だ。相手に恥をかかせるような真似はしないのがプロというもの」
「あ、いや、違います」
「もう、お兄ったらのろいさんに絡まないで! のろいさん、何か私に用があったんだよね」

 ただ顔が見たくて、いや見るだけではなく喋りたくてわざわざ呼び止めた。と、二人きりならたぶん言えた。
 そうして彼女自身に価値があると根気強く言わないと、彼女は簡単に自分自身を嫌ってしまう。なので、キャラではないとは思いつつ意識して言うようにしている。
 なのに、言えなかった。

「……あー、うん。健康診断の結果が出たから……」
「嘘だな。この男、嘘を言っている。行こうさっきゅん」
「えっ、お兄!? ごめんね、のろいさん! 後で診断結果取りに行くねー!」

 立ち去るいっきゅんを追いかけて、彼女はオレに手を振りながら行ってしまった。
 ――嘘だな。
 そう、嘘だ。
 彼女にも、自分にも、嘘を吐いた。

「……どうしろっていうんだよ」

 オレが途方に暮れて医務室に戻ってすぐにさっきゅんはやってきた。

「のろいさん、診断結果を取りに来たよー」
「あ、はいこれ。特に異常なし」
「なーんだ、何かあったのかって心配しちゃった」
「……いや、ただ君に会う口実が欲しかっただけ」

 二人きりなら、さらりと言える。さっきゅんは「それが嘘ってことか」と納得して、「可愛い嘘だね」と続けた。それから、健康診断の結果票をデスクに置いてオレの手を両手で握った。

「ごめんね、カノジョらしいことできてないよね」
「……君にそんなこと求めてないよ」
「え」

 さっきゅんの瞳が揺れ、黄金の瞳がじわっと滲む。
 こんな顔をさせたいわけじゃないのに。
 彼女が顔を伏せたので、慌ててぎゅっと握られたままの手を握り返した。

「あ、ごめん。勘違いしないでよね。君はそこにいてくれるだけでいい――……」
「……私、そんなお人形みたいに扱ってほしいわけじゃない」

 オレが言葉に詰まると、さっきゅんはパタパタと出て行ってしまった。

「……あれ?」

 何を間違えた?
 会いたくて会いに行って、会いに来てくれて、それでどうしてこうなる。
 追いかけないと。

「さっきゅん!」

 一瞬迷って出たためか、見える範囲にはもう彼女はいなかった。いたところで、何を言えばよかったのだろうか。
 そこから数時間の記憶はない。ただただ無心で雑務をこなしていた気がする。
 そんな状態で魔王様に会ったので、何事かを話しかけてくる魔王様に適当に頷いていたら、気付けば寝間着で魔王様の部屋にいた。

「二人ともよく来てくれたのだ!」
「……何この状況」

 にこにこと歓迎を示す魔王様の奥では、いっきゅんが堂々と魔王様のベッドでくつろいでいる。魔王様の部屋にはウシミツ様もいるはずだが、その姿は見えない。

「何って、パジャマパーティーだが」
「なんでオレが呼ばれたのか全然わかんないんだけど」
「王族、鳥獣族、淫魔。本家パジャマパーティーに対抗できるメンバーだ!」
「対抗してどうするんですか」

 目の前にはおはぎが並んでいる。あくましゅうどうし様に作ってもらったのだろうか。おはぎの隣にはホットミルクがあったので一口飲むと、甘すぎて目が冴えるほどに甘かった。

「ウシ……モー太郎くんはどうしたんですか?」
「サンドドラゴンの部屋で遊んでくるそうだ。だから今日は気兼ねなく夜更かしできるぞ」

 なんだそこの謎の繋がり。
 ツッコミどころしかないが、どうやらのんびりひとりで悩める時間はないようだった。明日は休みだし、たまの夜更かしくらいはいいか。

「いっきゅんは人間界にもよく行くし、もしかしたらパジャマパーティーに参加したこともあるかもしれないと思ってな」
「あぁ、魔王様。オレは男も大丈夫だぞ。……と、君は昼間の希望者の……。まぁ、さんぴ」
「魔王様! このヒトに近付くなとか保護者さんあくましゅうどうし様に言われませんでしたぁ!?」

 一通り魔王様が言っているパジャマパーティーについての説明をすると、いっきゅんは「なるほど。そしてこれもパーティーなのか」と言った。
 飲むものがないので、彼がポットから注いで渡してくれた激甘ホットミルクで喉を潤す。昼も思ったが、動作がスマートだ。
 この激甘は魔王様の好みのようで、魔王様は美味しそうに飲んでいる。煎餅と食べると甘いのとしょっぱいので意外と手が止まらない。おはぎには手が伸びなかったが、持って帰らせてもらおう。

「さっきゅんにパーティーをする友達ができたんだな」

 いっきゅんがフ、と笑う。初めてまともに会話が繋がった気がする。
 さっきゅんというキーワードを聞いて魔王様ははっとした顔でオレを見た。
 表情だけ見ると、おそらく「挨拶したのか?」という顔だ。首を振ると、「どうする!?」というように眉を一度上げ下げした。表情豊かな上司だな、と全く関係ない感想が浮かぶ。魔王様がオレより不安げな顔をするので、なんだか急に腹をくくることができた。

「……あの」
「ん?」
「オレ、のろいのおんがくかって言います。さっきゅん……さんと仲良くさせてもらってます」
「……さっきゅんと……?」
「彼女が姉と仲良くしてくれるのでオレもパジャマパーティーに出たり、あと、スイーツを一緒に作ったり……、健全なお付き合いを……」

 自分で言っておいてなんだが、健全すぎるような気がする。視界の端では魔王様が小さく拳を握って応援しているポーズを作る。この上司、本当に恋バナ好きだな。

「あっ、あのっ、淫魔にとって恋が禁忌っていうのは、聞いてます。だから、もしかしたら彼女はあなたに隠すかもしれないんですけど……! オレのエゴかもしれないけど、お兄さんにはわかっててほしいと思ってて……」
「ふむ」
「えっと、それで……」
「……オレはさっきゅんにはあまり淫魔っぽいことをしてほしくないから健全なお付き合いは歓迎だ」
「!」
「だが、君を歓迎するかは別だ」
「……そう……ですか」
「君、世話をしてやりたいタイプだろう。さっきゅんもそうだ。お互いそうでは上手くいかないだろ。オレの妹を傷付ける可能性があるのにどうして認められる?」

 いっきゅんの言葉がグサリと刺さる。不甲斐なくも目が潤む。

「……ついさっき……、お人形みたいに扱ってほしいわけじゃない、と、言われました。でもオレは」

 ふと、自分が饒舌になっていることに気付く。感情が表に出やすく、体が熱い。さきほどまで応援ポーズだった魔王様もベッドに倒れていた。まさか、この目の前の淫魔に何か――……。
 と、いっきゅんが激甘ホットミルクにブランデーをドボドボと注いでからオレに渡していることに気付いた。

「……入れすぎだろ」
「おや、ダメだったか」

 そこからの意識はあまりない。アルコール度数を意識した途端に、視界がぐるりと回っていた。
 気付くと、自分の部屋だった。もうとっくに出勤している時間だ。

「……最悪」
「あ、気付いた?」
「!? さっきゅ、痛っ」

 起き上がろうとしたが、ズキズキ痛む頭を押さえて再び頭をおろした。
 どうやらオレは彼女に膝枕されているようだった。オレを覗き込むさっきゅんはふふっと笑って「今日がお休みでよかったね」と言った。そういえば今日は確かに休みだ。もう一度起き上がろうと試みるのはやめることにした。

「お兄と飲み比べしたんだって?」
「……オレはお酒を飲んでるつもりはなかったんだけど」
「のろいさんのこといい奴だ、って言ってた」
「でも君のお兄さんはいつかオレが君を傷付けると思ってる……、付き合うのも許してくれないみたいだし」
「それなら私はここにいないよ。ちゃんと、のろいさんの部屋に行くって言って出てきたんだから。勝手に入ってごめんね、部屋にはハーピィさんに入れてもらったの」

 オレが手を伸ばすと、さっきゅんがその手を握った。

「今日はこうしててくれる?」
「いいよ」

 さっきゅんは昨日出て行ったときの暗いトーンは幻だったかのように明るく振る舞っている。
 だからといって昨日のことを謝らないわけにはいかないよな。
 指を絡めると、さっきゅんは「なーに?」と返事する。

「昨日はごめん。君がいるだけでいいっていうのは、お人形扱いじゃなくて……、君がいてくれると仕事も捗るし、何を食べても美味しいし、どこにいても楽しいし――……」
「まだ酔ってるんでしょ。後から思い出して恥ずかしがっても知らないからね」
「君が口を塞いでくれないと」

 さっきゅんはオレの口を手で塞いだ。鼻もけっこうギリギリで呼吸が危ういが、まぁ、まだ大丈夫だ。この子はそうくるよな、と思っていると長い髪がオレの顔に影を落とした。
 柔らかい唇がオレの唇を塞ぐ。首筋に香水をつけているのだろうか、甘い香りが鼻先をくすぐる。手を伸ばして頭を撫でると、彼女の細い髪が指に絡んだ。

「お酒くさいなぁ、もう」

 さっきゅんが照れくさそうに笑うので、目を閉じて少し顎を上げるともう一度ちゅっと唇を重ねた感触があった。
 オレとしては決死の覚悟だったが、先日のような指先の痺れはなかった。

「あれ、生気吸われてない。お腹いっぱい?」
「ううん。吸わないように練習したの。それに、お腹いっぱいでものろいさんは別腹だよ」
「別腹なんだ。あ、何か作ろうか?」
「いいから、寝ててよ。私ね、のろいさんに頼ってほしいの」
「でも」
「それに私も頼らせてほしい。お互いが疲れなければいいって、そういうことでしょ?」
「……うん」

 彼女はにこっとまた笑った。そういえば、笑顔も久しぶりな気がする。
 ごろりと寝返りを打って彼女の腰に抱き着く。

「お昼過ぎには復活するから、城下町にでも行こうか」
「えー? 本当に大丈夫?」
「大丈夫」

 その時、トントンとノックの音がした。オレの頭をそっとおろしてさっきゅんが出ると、姉さんが「あ」と嬉し気に口元を押さえた。

「さっきゅんさん、よかった、まだいたんですね!」
「うん。のろいさんが倒れたの、そもそもお兄のせいだし」
「これをのろくんに食べさせてくれません? 私、これから仕事で」
「?」

 姉さんが持ってきたのは、実家で誰かが寝込んだときに親が必ず作るかいふくチェリーのおかゆだった。
 お盆を持ってきたさっきゅんが、木の匙ですくったおかゆをオレの口元に持ってくる。たぶん姉さんが「食べさせて」って言ったのはそういう意味じゃない。が、まぁいいか、とそのまま甘えることにした。飲み下すと、わずかにかいふくチェリーが効いている気がする。吐き気がなくてよかった、と心底思う。

「かいふくチェリーのおかゆって美味しいの?」
「特に美味しくはないんだけど、うちの定番なんだよね」
「へー、今度ハーピィさんに習おうかな」
「オレの実家の味を習うって、意味わかって言ってる?」
「え? 作ってあげたいの、だめ? うちはあんまり定番とかなかったから」

 「もちろん嬉しいけど」と言いつつ考える。後半の話は、彼女が年末年始に実家に戻らないことも関係があるのだろうか。まだ、よく話すようになる前、とても元気に見送られた覚えがある。思えばあの頃から、さっきゅんのことは認識していたのだ。
 しかし本人に何も聞かずに考えても仕方のないことだ。そして、聞くのは今でなくてもいいだろう。

「……少し寝ていい?」
「うん。城下町に行くならおすすめスポットを姫に聞いてくるよ」

 そういえば、デートは初めてだ。出るときは、おしゃれしないと……。
 ふと、昨日のさっきゅんの言葉がよみがえってきた。
 ――お人形みたいに扱ってほしいわけじゃない。
 オレも、子どもみたいに扱ってほしいわけじゃない。だけど、彼女の膝枕は悪くない。
 そもそも頼ったり甘えたりする方法がわからなかったが、今後は膝枕をお願いしよう。そんなことを考えていたらいつの間にか寝入っていた。